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渡良瀬遊水地の歴史


谷中村の歴史

渡良瀬遊水地は、旧谷中村や周辺地域の人々の犠牲と協力のもとにつくられました。

谷中村(やなかむら)

水害を受けやすい土地柄

水塚と揚舟の画像谷中村は、渡良瀬川、巴波川、思川に挟まれた沼地や湿地が広がる地域に位置し、周辺に比べて地盤の高さが低く水害を受けやすいため、村の周囲には囲堤が築かれていました。谷中村や周辺の村では、各家で洪水に備えて『水塚(みづか・みつか)』や『揚舟(あげふね)』などがありました。

村では、稲作、畑作のほか、多くの池沼や水路を活かし、魚捕りや湿地の植物ヨシ、スゲを使ったヨシズ編み、スゲ笠作り、養蚕業なども行われていました。

谷中村の廃村と遊水地化計画

雷電神社(大正6年2月)常に洪水の被害に見舞われていた谷中村周辺地域では、明治20年(1887)代の足尾鉱毒問題をきっかけとして遊水地化の意見が出され、河川の氾濫被害を無くすため、渡良瀬川下流部に遊水地を造る計画が打ち出されました。

遊水地化の計画は谷中村を中心とした地域で、明治38年(1905)から栃木県が買収を進め、明治39年(1906)に谷中村は藤岡町(現・栃木市)に合併され廃村となりました。旧谷中村(下宮、内野)の一部には現在も旧村民の子孫の方が住んでいます。

谷中村周辺地域の現在の状況

栃木・群馬・埼玉の県境

平地の3県境の画像旧谷中村の一部の下宮地区には、全国的にも珍しい、平地の3県境(栃木県・群馬県・埼玉県)があります。

かつては渡良瀬川の中に位置していた県境ですが、明治時代から大正時代にかけての河川改修工事により、もともと川であった場所が埋め立てられた結果、現在の平地に位置する県境となりました。しかし最近まで正確な位置が分からない状態でした。

平成28年1月から3月にかけて、栃木市・板倉町・加須市が共同で3県境の測量を実施し、境界点が確定しました。

「歩いて行ける3県境」、みなさんもぜひ訪れてみてはいかがでしょうか。

谷中村史跡保全ゾーン

谷中村史跡保全ゾーンの画像旧谷中村の中心部は、「谷中村史跡保全ゾーン」として、水塚(みづか・みつか)や史跡(役場跡・雷電神社跡・延命院跡・谷中墓地等)が保全されています。

田中正造

天皇への直訴、足尾鉱毒事件

田中正造は、天保12年(1841)安蘇郡小中村(現・栃木県佐野市)で生まれ、栃木新聞(現・下野新聞)編集長を経て、県会議員となりました。明治23年(1890)第1回衆議院銀総選挙に当選し、足尾鉱毒問題に取り組んだ人物です。

足尾銅山は渡良瀬川上流に位置し、江戸時代に鉱脈が発見されて開発が始まりました。明治時代になると、産銅量が増加するとともに鉱毒による被害が現れ、社会問題となりました。被害は渡良瀬川中下流地域にも拡大し、谷中村の村民たちは、栃木県選出の衆議院議員である田中正造と共に、足尾銅山の操業停止と被害民救済を訴えました。田中正造は、鉱毒問題を国会で取り上げ、明治34年(1901)には衆議院議員を辞職し、天皇に直訴を試みました。

明治36年(1903)、政府は洪水と鉱毒被害の対策として谷中村地域を遊水地とすることを決定しましたが、田中正造はこれに反対。翌年谷中村に移住し、村民と共に遊水地計画の反対運動に尽力しました。

地域の伝統

渡良瀬遊水地のヨシとヨシ焼き

渡良瀬遊水地のヨシを使ってヨシズを編んでいる画像人の住まなくなった旧谷中村の跡地に土砂が堆積してヨシが自生するようになり、現在では遊水地の総面積の約半分(1,500ha)にヨシ原が広がっています。ヨシは、ヨシズなどの地場産業に利用され、地域の生活・文化に大きく関わってきました。冬の間にヨシズの材料となるヨシを刈り取ったのち、3月下旬に「ヨシ焼き」が行われます。

ヨシ焼きは、害虫を駆除して良質なヨシを育てるほか、湿地や生態系の保全、樹林化の防止による治水容量の確保にも重要な役割を担っています。