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平成29年度広島平和記念式典中学生派遣活動報告

印刷 大きく印刷 更新日:2018年10月22日更新
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広島平和記念式典へ中学生を派遣しました

平成29年出発の画像

 非核平和事業の一環として、次世代を担う中学生に戦争の悲惨さや平和の尊さを再認識してもらうため、市立中学校の代表生徒を広島へ派遣しました。

派遣期間:平成29年8月5日(土曜日)~8月7日(月曜日)

派遣団員

  • 団長:高野藤岡第一中学校長
  • 団員:市立中学校(全14校)2年生 男女各1人 計28人
  • 随行:総務課、学校教育課、健康増進課職員 計4人

以下は派遣団員の報告原稿より抜粋したものです。

1日目:8月5日(土曜日)平和記念資料館~千羽鶴奉納

平成29年資料館の画像1

平成29年資料館の画像2

平成29年資料館の画像3

平成29年千羽鶴の画像

平和記念資料館

  • 特に心に残ったのが、小学校低学年の被爆者がひどい放射線で火傷を負い、お母さんに「僕のことは良いから、お母さんは人のためになる仕事を」と言い終わる前に亡くなった男の子の話です。このような、何の罪もない子ども達や私よりも小さな子、同級生も、多くの人が亡くなっていると知り、悲しくなりました。
  • 外傷がまったくなく、無傷と思われた人たちが、被爆後、月日が経過してから白血病などの後遺症を発症し、多くの人々が死亡した例も多くあります。原子爆弾からの放射線で、罪のないたくさんの人々の尊い命を数日のうちに、また月日が経過してから奪うという、とても悲惨だったことだと改めて感じました。そして原子爆弾の恐ろしさを知り、絶対に核兵器はあってはならないと強く思いました。
  • 子供の学生服、肌着、婦人服など被爆当時に身に着けていたものが展示されており、どの衣服も焼けて溶けていました。その服を着ていた子供の母親は、皮ふを切り取らなければいけなかったそうです。衣服からも戦争の悲惨さが伝わってきました。
  • 私は、今まで平和で安全な「普通の生活」を送れているのは、当たり前なのだと思っていました。しかし、原子爆弾の被害の様子や、被害にあった方々の遺品を見て、それは違うと思い知らされました。今は時代が変わり、こんなに大きな戦争は起きないのかもしれません。しかし、突然変わってしまうこともあり得ます。今、平和で安全に生活できていることに感謝したいです。そして同じようなことが二度と起こらないように伝えていきたいです。

千羽鶴奉納

今回広島に奉納した千羽鶴は学校のみんなで協力して作ったものです。その一羽一羽に「平和」などの思いを込めました。私の学校では生徒の人数が少なく、とても大変でしたが一羽一羽願いを込めて、一生懸命作りました。たくさんの願いがこもった千羽鶴を奉納したときは、平和の広い空に羽ばたいていったように思いました。

2日目:8月6日(日曜日)平和記念式典~宮島~灯ろう流し

平成29年式典の画像

平成29年献花の画像

平成29年宮島の画像

平成29年灯ろう流しの画像

平和記念式典

  • 「黙とう」という声とともに、皆で一斉に目を閉じると同時に平和の鐘が鳴り始めました。72年前のちょうどこの瞬間に原爆が落ちたことを想像すれば、凄まじい閃光や川に水を求めてさまよった男女の区別も分からない人、積み重なる屍が目に浮かんできました。僕は、この式典に参加している意味を深く受け止めました。
  • 広島市内の子ども代表として竹舛さんと福永さんの平和への誓いがありました。僕は「感情までも奪われた人がいた。」というところが心に残りました。僕らが生きている今の時代では、簡単に笑ったり、怒ったり、泣いたりすることができます。でも、こんな当たり前のことが当たり前でなくなる戦争は、とても恐ろしいものだと思いました。
  • 広島に原爆が投下され、たった一つの爆弾で何も罪のない多くの人々の命が奪われました。戦後から72年も経ち、当時の様子を知る人は少なくなっていると思います。私たちが体験したことを周りの人に話し、戦争の怖さを伝えていかなければいけないと思いました。

宮島

今回は干潮時の厳島神社を見学しましたが、満潮時の海に浮んでいるように見える厳島神社も見てみたくなりました。日本三景でもあり、世界遺産にも登録されている宮島は、世界に誇れる美しき日本の象徴だと感じました。

灯ろう流し

人それぞれ書いていることは違いますが、昔、広島や長崎で起こったようなことが二度と世界で起こらない平和な世界になってほしいと言う気持ちは全員一緒です。原爆で亡くなってしまった人のためにも、二度と戦争の起きない世界を築いていきたいです。

3日目:8月7日(月曜日)被爆体験講話

平成29年被爆講話の画像1

平成29年被爆講話の画像2

被爆体験講話:講師 山本定男氏

  • 僕たちに被爆講話をしてくださったのは山本定男さんという方です。山本さんは十四歳の時、爆心地から2.5キロメートルのところで被爆しました。山本さんは軽いやけどを負い、近くにあった神社でやけどをしたところからばい菌が入らないようにてんぷら油を塗ったそうです。その後、山本さんは家に帰ると家は爆風でぼろぼろだったけど家族は全員助かったそうです。被爆講演者が少なくなっていく中、こういう講演が聞けて改めてその貴重さを実感しました。
  • 最も心に残ったのは、終戦後も被爆した方は苦しみ続けたということです。その時の苦しみだけでなく、白血病などの原爆症や、差別をされてしまった方もいたそうです。特に私は、差別や偏見が今でも少し残っているということに驚きました。結婚するときや銭湯に入るとき、被爆者だからという理由で拒まれてしまうなんて、決してあってはいけないことです。でもこの出来事が風化されてしまったら、また同じことが起きてしまうかもしれません。だからこそ、このような悲惨な出来事を教えてもらった私達が、それを発信していかなければなりません。
  • 原子爆弾は自分が想像していた以上に悲惨なものでした。何の罪もない人たちをたった一発落としたことで、多くの人たちが亡くなってしまい、放射線による後遺症でたくさんの方が苦しんだことを知りました。原子爆弾による被害は決して小さくないとは思っていたものの、被害の様子を聞いていると胸が痛くなりました。

千羽鶴の作製にご協力いただきありがとうございました

 各中学校で全校生徒が心を込めて折った千羽鶴と各地域で開催したとちぎ平和展等で市民の皆さんに折っていただいた折鶴を使った千羽鶴は、派遣団員が大切に原爆の子の像に捧げてきました。

 ご協力ありがとうございました。

派遣期間全体の感想

平成29年広島派遣集合の画像

私は、実際に広島の地へ行くことで、たくさんのことを学ぶことができました。骨組みがむき出しになった原爆ドーム、被爆した三輪車、これに乗っていた子供は一瞬にして未来を奪われました。これらを実際に資料館で目の当たりにし、私たちの国では、昔、こんな悲惨なことがあったということを、まぎれもない事実として重く受け止めました。同時に、今ある生活がどんなに幸せなことかを、改めて実感しました。そして、この幸せをすべて奪ってしまう核兵器が、この世にあってはいけないこと、戦争をしてはいけないことを、私は、多くの人に訴えていかなければならないと、強く思いました。

 私達28人は、平和で安心して暮らせる社会を目指し、この目で見たもの、耳で聞いたこと、肌で感じたことを、学校のみんな、栃木市の多くの方に伝えていくために、平和大使として、今後もがんばります。

報告会について

 8月25日(金曜日)、今回の派遣で学んだことや感じたことを班別に発表しました。今後、派遣団員の皆さんには、各校の学校祭などで校内発表し、全校生徒に派遣活動について広めていただくことになっています。

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