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令和7年度 広島平和記念式典中学生派遣活動報告

印刷 大きく印刷 更新日:2025年9月1日更新
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広島平和記念式典へ中学生26人を派遣しました

 非核平和事業の一環として、次世代を担う中学生に戦争の悲惨さや平和の尊さを再認識してもらうため、市立中学校の代表生徒を広島へ派遣し、広島平和記念式典への参列をはじめ、広島平和記念資料館の見学や被爆体験講話学習等を行いました。
 
【派遣期間】 令和7年8月5日(火曜日)~8月7日(木曜日)
【派遣団員】 団 長:栃木南中学校長
       団 員:市立中学校(全13校)の代表生徒 各校2人 計26人

 原爆ドーム

1日目:8月5日 千羽鶴の奉納、広島平和記念資料館の見学

広島平和記念公園

 広島市に到着後、原爆ドームや広島平和記念公園を見学し、千羽鶴を奉納しました。平和記念公園では翌日の平和記念式典の準備やリハーサルが進められていました。

原爆ドーム前にて 平和記念公園

原爆の子の像への千羽鶴奉納

 各中学校で作製した千羽鶴と、とちぎ平和展等で市民の皆さんに作っていただいた折り鶴で作製した千羽鶴を、平和への願いを込めて、原爆の子の像に奉納しました。千羽鶴の作製にご協力いただき、ありがとうございました。

原爆の子 千羽鶴奉納

団員報告より

「原爆の子の像は、高さ9メートル、その頂上には、折り鶴を捧げ持つ少女の像が立ち、平和の未来への夢を託しています。原爆の子の像のモデルは、佐々木禎子さんです。禎子さんは、2歳の時に広島で被爆し、9年後に白血病を発症しました。回復を祈って千羽鶴を折り続け12歳で亡くなりました。「原爆の子の像」は禎子さんの死をきっかけに友人たちの呼びかけで募金活動が行われ、1958年に完成しました。禎子さんは、「早く自分の病気を治してみんなと遊びたい」という願いをこめて、千羽鶴を作り続けていたのだと感じました。ここまでがんばれたのは、もちろん禎子さん自身が戦い続け、友達の絆や思いやりもあったからなのではないでしょうか。私は、戦争の悲惨さを知ることはもちろんのこと、友情を大切にすることも平和につながるとあらためて実感しました。」

「栃木市は、平成24年3月1日に『非核平和都市宣言』 を行い、毎年、中学生の広島平和記念式典派遣と千羽鶴の奉納を行っています。広島平和記念公園内にある高さ9mの塔の上に、折り鶴を捧げ持つ少女のブロンズ像が立っています。このブロンズ像のモデルになっているのは、佐々木禎子さん。禎子さんは、2歳の時に被爆し、外傷はなかったものの、9年後の小学6年生の秋に白血病と診断され、広島赤十字病院に入院。回復を願って、薬の包み紙などで鶴を折り続けましたが、八か月の闘病生活の後、昭和30年10月25日に亡くなりました。禎子さんの死をきっかけに、原爆で亡くなった子供たちの霊を慰め平和を築くための像をつくろうという運動が始まり、全国からの募金で平和記念公園内に原爆の子の像が完成しました。「原爆の子の像」の下にある石碑には、『これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための』という碑文が刻まれています。この石碑は、像の建設をした「広島平和をきずく児童・生徒の会」によって設置されました。原爆の子の像が完成してから禎子さんの話は世界に広がり、今も日本国内世界各国から折り鶴が捧げられ、その数は年間約一千万羽、重さにして約 10トンにものぼります。」

広島平和記念資料館

  千羽鶴を奉納した後、広島平和記念資料館を見学しました。資料館はとても混みあっていましたが、原子爆弾による悲惨な状況を前に、誰もが息を飲み見学していました。

平和記念資料館 平和記念資料館2

団員報告より

「まず平和記念資料館内へ入ると、大きなパノラマ展示があり、昔の広島の街並みが広がっています。しかし、ゲートをくぐりぬけると目に飛び込んできたのは、壁一面の被爆したヒロシマの姿でした。生き生きとした美しい街はもうどこにもなく、建物のほとんどが崩壊し、あたりはがれきが溢れかえっています。これを実際に目の当たりにした広島の人々の悲しみや怒りは、想像を遥かに絶するものです。たった一発の原爆であの日、多くの命が失われることなど、広島で、日本で、いったい誰が考えたでしょうか。この写真に写っている一つ一つが、原爆の恐ろしさを物語っています。平和の日常を送っている私にはとても信じ難い光景で、強く心に残りました。」

「広島平和記念資料館で心に残ったのは、当時13歳だった折免滋くんの持っていたお弁当です。滋くんは爆心地から600mで被爆し、真っ黒なお弁当を骨となった状態で抱えていました。8月6日に滋くんはこのお弁当を食べるのを楽しみに家を出ていき、何の罪もない人たちを殺してしまう原爆によって帰らぬ人となりました。滋くんのお母さんは、滋くんの体の下からどんな思いでこのお弁当を取り出したことでしょう。私は、この真っ黒なお弁当箱を見て『核を絶対に使ってはいけない』『人類と核は共存できない』と思いました。このお弁当箱を記念資料館に寄贈した滋くんのお母さんは、このお弁当を見るたびにとても辛い思いをしたと思います。それでも、自分の子供の遺品を『原爆の悲惨さ』『命の大切さ』を伝えるために寄贈してくれたお母さんの気持ちを、私たちは心に刻まなければいけないと思いました。」

「 広島平和記念資料館には被爆した方の衣服が展示されていて、ありえないほどの悲惨さでした。資料館にはこのほかにも展示品として、当時の生活がわかるようなものもありました。どれもボロボロになっていて、原爆の威力がわかりました。衣服類以外のもので展示されていたものとしては、お弁当箱、被爆の時に人が座っていて原爆の威力で人の跡が残った壁、自転車の溶けたようなものなどがありました。この展示品からも原爆の威力がとても伝わりました。この資料館ではほかにも展示品や被爆した時の広島の写真などがありました。この資料館では、原爆の威力や、原爆の悲惨さを学びました。そして、やはり原爆は使ってはならないし、戦争も絶対に起こしてはならないと感じました。この資料館を見て、今続いている平和がどんなに素晴らしいことか、この平和を続かせていかねばならない、とあらためて考えました。」

「平和記念資料館はとても混雑していて、暑く、苦しく、流れに身を任せて進まなければならないくらいでした。せっかく来たのに全然見られなくて残念だったけれど、ポジティブな捉え方もあるのではないかと考えてみました。人がたくさんいました。その中には外国の方も多くいました。今、被爆、戦後80年という長い年月が経ちました。人間は忘れる生き物です。しかし、二度とこのようなことを繰り返してはいけません。被爆者の方のため、これから生きる人のためにも。だからこそ正しい知識をたくさんの人が知る必要があります。私は危機感を感じていました。しかし、平和記念資料館を見て、少し安心しました。たくさんの方々が、広島や平和記念資料館を訪れていたのです。日本人の方だけでなく、外国の方も来ていたことにとても嬉しくなりました。日本だけでなく、世界が注目するべきだからです。ロシア、ウクライナ情勢、中東情勢など、今、世界各国で戦争が行われています。戦争は一瞬でたくさんの人の命を奪います。戦争をしても良いことなど一つもありません。」

「原爆によって笑顔は一瞬にして奪われました。服は焼け焦げ、皮膚はただれ、いくつもの家が全焼しました。原爆は、友達と遊んだり、家族と過ごしたり、夢中になることに打ち込んだりする当たり前を奪いました。それでも広島の方々は立ち上がり、見事に復興して見せたのです。そしてこのような悲惨な出来事を二度と繰り返さないように伝えていっているのです。それは人それぞれにやり方があると知りました。写真として残したり、被爆したものそのものを実物として大切に保存したり、絵にしたり、言葉にしたり、いろいろな方法があります。平和記念資料館を作ったのも”伝える”という方法の一つであると感じました。そしてそれらの方法で伝えてもらった私たちの使命は”伝える”ということです。”伝える”というリレーを繋げられるよう、しっかりと言葉を選んで伝えていきたいと思います。」

2日目:8月6日 広島平和記念式典参列、宮島・厳島神社の見学、元安川灯ろう流し体験

広島平和記念式典参列

 2日目は朝早くから起きて、広島平和記念式典に参列しました。厳粛な雰囲気の中、原爆が落とされた8時15分に平和の鐘が鳴らされるとともに黙とうを行い、原爆犠牲者に追悼の意を捧げ、平和な世界の実現を誓いました。

平和記念式典 こども平和宣言 

県知事の言葉 献花

団員報告より

「広島平和記念式典とは、毎年、広島県広島市に原爆が投下された8月6日原爆忌・平和記念日に平和記念公園で行われる、原爆死没者の霊を慰め、世界の恒久平和を祈念するための式典です。この式典ではこども代表による平和の誓い、内閣総理大臣や広島県知事、国際連合事務総長によるあいさつなどが行われます。また、原爆死没者慰霊碑の中央にある石室の中には国内外問わず、亡くなられた原爆被爆者全員の氏名を記帳した名簿が収められています。その名簿の名前が原爆死没者名簿といい、その数がなんと130冊もあり、記されている人数は34万9246人にまでのぼります。そして、中央にある碑文には「安らかに眠ってください 過ちは繰返しませぬから」と刻まれており、これは原爆犠牲者の冥福を祈り、戦争の過ちを二度と繰り返さないことを誓う言葉だそうです。」

「私は平和記念式典に参加して心に残ったことが2つあります。1つ目は参加した方々についてです。式典に参加していた方々は広島県に住んでいる方だけではなく、さまざまな地域の方々や海外の方々なども多く参加していました。私は今回の派遣がなければ、式典に参加することはなかったと思います。そのため、さまざまな場所から多くの方々が自ら式典に参加していたのを目にして、驚き、とても感動しました。2つ目は平和への誓いです。平和への誓いでは、こども代表の小学6年生の2人が平和への決意を述べていました。私は2人の誓いの中で 「あの日の出来事を、ヒロシマの歴史を、二度と繰り返さないために、私たちが、被爆者の方々の思いを語り継ぎ、一人一人の声を紡ぎながら、平和を創り上げていきます。」 という言葉が特に心に残っています。今回の派遣の中でヒロシマの歴史や原子爆弾の大きな被害と恐ろしさ、また核兵器によって今もその脅威にさらされ続けていることなどを学びました。今、きれいな服を着ておいしいご飯が食べられていること、たくさんのことを学ぶ機会があること、笑って当たり前の日常を過ごすことができていることの幸せやありがたさを実感することができました。実際に行ったから分かったことや学んだことを少しでも多くの人に伝えて、2人のように平和を創り上げていけるように頑張ろうと思いました。」

「 私が平和記念式典に参列してみて心に残ったことは二つあります。まず1つ目は、戦争の悲惨さです。私は、戦争についてどこか他人事だと思って過ごしていたと思います。なぜなら戦争はもう80年も前のことで、今の世代にはあまり現実味がなく、戦争はいけないことだという印象しかありませんでした。しかし、式典に参列して「広島市長」「こども代表」「内閣総理大臣」などいろいろな人のお話を聞き、悲惨さを感じ原爆ドームを見てそれを実感しました。私は、戦争の本当の姿を知りました。また、私は広島から帰ってから、テレビで「火垂るの墓」を見ました。戦争の悲惨さを感じ、つらくなりましたが、私は、受け止めて、この映画をたくさんの人に見てもらいたいなと思いました。2つ目は、今の子供たちの重要性です。私は広島に行き、たくさんの人からこのことを周りの人に伝えてほしいと言われました。私はそれに協力したいと思いました。なぜなら私も、未来を担う人が戦争を忘れてしまって、また悲劇を繰り返してしまったら悲しいと思ったからです。ですから私は、私の同級生だけでなく私よりも下の世代にまで、伝えていきたいなと思いました。また、私は世界中の人々にも伝えることで、より世界中が平和に近づくと思いました。平和記念式典にはたくさんの外交官の方たちが、いらっしゃっていました。私は、それがとてもうれしかったです。私は、そんな人が増えればいいなと思いました。」

「私は、平和記念式典に参加して心に残ったことが二つあります。1つ目は、この平和記念式典に関わった方々についてです。式典の始まる前から吹奏楽団の中高生や合唱団の方々、警備や係員の方々が朝早い中、各所で活動されており、強く心に残りました。また、式典には多くの国や日本の様々な地域から参列し、慰霊碑に献花や参拝をしていました。会場の周囲にも多くの人が集まっており、驚きました。2つ目は、広島市長による平和宣言です。平和宣言では、核廃絶や平和文化への思い、世界の為政者や政府に向けた思いについて語っていました。そのなかで、「次代を担う若い世代には、軍事費や安全保障、さらには核兵器の在り方は、自分たちの将来に非人道的な結末をもたらし得る課題であることを自覚していただきたい。」と語っているところがありました。今でも世界では、戦争が起こり、それに備えて軍備増強や核兵器保有への動きが加速しています。私は、この派遣で学べたことを伝え、この先の世界恒久平和を強く願って行動していきたいです。」

「私は、平和記念式典に参加し、戦争の悲惨さや広島の方々の深い悲しみ、想い、希望、願いを知り核兵器廃絶の声を国内外に強く訴え続けることの大切さ、平和の尊さを学びました。唯一の戦争被爆国として、核兵器のない世界実現を目指して、被爆者の声を語り継ぐ責任があると感じました。現地でしか感じることのできない緊迫した雰囲気のなか、平和の尊さについて改めて考える貴重な体験となりました。もう二度と核戦争の起こらない平和な世界になってほしい。式典に参加して、この思いはより一層深いものとなりました。平和宣言やこども代表の誓い、飛び立った鳩や平和の鐘を聞いて平和への思いに強く胸をうたれました。周りの人々の痛みに寄り添えるような人になり、式典で感じたことを忘れず、平和のために自分にできることを考え、未来へ伝えていこうと思います。」

「 私は平和記念式典に参加して学んだこと、感じたことが大きく二つあります。1つ目は、戦争と核兵器の恐ろしさと平和の大切さです。たった一つの原子力爆弾によって、記録に残っている限りおおよそ34万人の人々が犠牲になったそうです。また、生存した人も後遺症に悩まされたり、被爆二世、三世と言われ、結婚を反対されるなどの差別をうけるといった被害もあったようです。原爆死没者慰霊碑「安らかにねむってください 過ちはくりかえしませぬから」。この碑文はすべての人々が原爆犠牲者の冥福を祈り、戦争という過ちをふたたび繰り返さないことを誓い、過去の悲しみに耐え、憎しみをのりこえて全人類の共存と繁栄を願い、真の世界平和の実現を記念する「ヒロシマの心」が刻まれているそうです。私は、この短い文字の中からでも、悲惨な状況だったのだろう、もう二度とこんな恐ろしい経験はしたくないと思うとともに、何の罪もない人が犠牲になって、悔いを残し亡くなっていったのだろうと想像しました。二つ目は今後私たち若い世代がするべきことについてです。平和記念式典で石破総理大臣が「被爆体験者の平均年齢は86歳をこえ、国民の多くは戦争を知らない世代になりました、広島平和記念資料館を訪問した際、この耐え難い経験と記憶を決して風化させることなく世代をこえて継承しなければならないと決意を新たにいたしました」と述べていた言葉が非常に印象に残りました。昨年は、核兵器の廃絶や被爆の実相に対する理解の促進に取り組んでこられた日本原水爆被爆者団体協議会がノーベル平和賞を受賞されました。こういったことを踏まえ、日本をはじめ、世界中が二度と戦争という同じ過ちを繰り返さないために、私たち同世代、下の世代、これから生まれてくる子供たちに伝えていかなければならないと思いました。非核三原則を堅持しながら「核兵器のない世界」を国際社会の中で主導することは、唯一の戦争被爆国である、わが国の使命であると述べていました。このようなことを踏まえて私たちは語りついでいかなければならないと学びました。」

宮島・厳島神社の見学

 広島平和記念式典に参列した後、宮島を訪れ、ユネスコの世界文化遺産に登録されている厳島神社を見学しました。1400年以上前に建てられた建造物の美しさやその歴史的・文化的な価値に深く感銘を受けました。

宮島 厳島神社

団員報告より

「 宮島は、瀬戸内海に浮かぶ小さな島で、その美しい自然景観と歴史的な建造物で知られています。特に、海に浮かぶように立つ鳥居と厳島神社は世界的に有名で、日本三景の一つにも数えられています。その近くの宮島歴史民俗資料館は、19 世期の商家の母屋や土蔵を改修したもので、中に文化遺産を展示しています。島全体が神聖な場所とされ、自然豊かな山々や野生の鹿が生息していることでも知られています。宮島最高峰の弥山(みせん)は、特別天然記念物の原始林が残る自然豊かな場所です。厳島神社は、平清盛が厚く信仰し、平安時代末期に現在の寝殿造りの海上社殿を造営したことで、「潮が満ちると海に浮かんでいるように見える社殿」という現在の姿の基礎が築かれました。厳島神社は、都の文化を取り入れながら発展し、日本三景の一つとして知られる名所となりました。江戸時代には、一般庶民も参詣するようになり、島は賑わい、1996年にユネスコの世界遺産に登録されました。 海上に立つ鳥居は、厳島神社のシンボルです。 祭っている神は、宗像三女神で、海上安全や財運、芸事の神様として信仰されています。」

「厳島神社の大鳥居は、平清盛が850年前に初代を作りました。現在は、1875年に作られた9代目です。この鳥居は、地中に埋まっているのではなく、砂浜の上においてあるだけなのだそうです。また、特徴的な太い二本の柱は、クスノキをつかっていて、下の部分は数年前に「令和の大工事」をしたそうです。厳島神社といえば、この大鳥居が有名ですが、実は神社自体は鳥居が建設される550年前からあったそうで、二羽のカラスが宮島に神様を連れてきてくれたと伝わっています。厳島神社の屋根はヒノキの皮を竹の釘で押さえて作る「ひわだぶき」で作られています。10年たったらヒノキにまた新しい皮ができるので、10年ごとに張り替えるのだそうです。昔の人々が考えた持続可能な仕組みなので、ガイドの方は、このサイクルを「元祖SDGs」と紹介していました。私は、そのお話を聞いたときに、屋根まで自然と共存できるような作りになっていることに驚きました。このような今に通じる昔の知恵と工夫を知ることが、今社会が抱えている問題の解決につながるのではないかと思いました。」

「私は、宮島・厳島神社を見学してたくさんのことを学びました。宮島は、爆心地から約17キロ離れた場所にありますが、立ち上がった大きな煙は宮島からも見えたそうです。この美しい宮島も原爆の恐ろしさや平和の大切さを考える場所だと感じました。宮島は、貿易港として栄えていて平清盛などの歴史人物とも深く関係しています。
また、日本三景でもあることからたくさんの観光客が訪れ、様々な言語が飛び交う交流の場にもなっていました。宮島の中心にある厳島神社では、歴史や自然を守るために様々な工夫が施されていました。海のすぐそばにある厳島神社は、満潮になると水位が高くなり回廊の床の高さまで届くことがあります。そのため、回廊の板には潮の満ち引きの際水が通りやすいよう隙間があります。また、理由はわかっていませんが柱と柱の間は八尺(約2メートル40センチ)で一枚一枚の幅は違いますが、すべて八枚の板で統一されているそうです。当時の人がどういった考えだったのか想像を膨らませ昔の方々の深い考えに驚きました。地面を見ると、絶滅危惧2類に指定されているハクセンシオマネキというハサミの白いカニがたくさん歩いていました。自然豊かな宮島だからこそ出会える貴重な生き物だと思いました。今回の見学を通して、宮島は歴史と自然が共存する特別な場所であることを学びました。」

元安川灯ろう流し体験

 2日目の最後に原爆ドームの前の元安川で灯ろう流しを行いました。この灯ろう流しは昭和23年頃から親族や知人を原爆で失った方々が供養のために始めたと言われています。生徒の皆さんも平和への願いを込めて灯ろうを流しました。

とうろう流し 灯ろう流し

団員報告より

「広島の「とうろう流し」は、毎年8月6日に広島市の元安川で行われる平和祈念の行事です。1945年に広島に投下された原子爆弾によって亡くなられた方々への慰霊と、世界の恒久平和への願いを込めて、多くの人々が灯ろうを川に流します。会場は原爆ドームのそばを流れる元安川で、夕方から夜にかけて、参加者がそれぞれの思いを込めた灯ろうを静かに水面に浮かべます。灯ろうには「平和への願い」や「家族への思い」などのメッセージを書くことができ、当日受付で誰でも参加可能です。また、希望者には「折鶴再生紙」を使った灯ろうも提供されます。これは、原爆の子の像に捧げられた千羽鶴を再利用した紙で、平和の象徴として特別な意味を持っています。 夕暮れ時、川面にゆらめく灯ろうの光は幻想的で、まるで亡くなった人々の魂を慰めているかのような静けさに包まれます。とうろう流しは、戦争の悲惨さを忘れないための象徴的な行事であり、広島から世界に向けて平和のメッセージを届ける大切な機会となっています。近年では、オンラインで灯ろうを流す体験も可能となっており、音楽イベントなども併せて開催されることで、より多くの人々が平和について考えるきっかけとなっています。毎年、国内外から多くの人が訪れ、それぞれの思いを込めて灯ろうを流すこの行事は、過去をしのび、未来への希望をつなぐ時間を提供してくれる、心に残る平和の祈りの場です。」

「灯ろうには亡くなった方々を悼み慰霊する気持ちを込めました。現在の綺麗に整った今の広島からは80年前の悲惨な光景は想像がつきませんでした。ですが、原爆ドームだけは当時のままで、80年前にここで多くの方々が被爆し、今も苦しみ続けている人がいることを思うと胸が締め付けられました。また、痛みに苦しみ亡くなられた方々、今も苦しみ続けている被爆者の方々、思い出したくない辛い過去を私たちのために伝え続けてくれている被爆者の方々に心の底から感謝していきます。さらに私は平和への祈りを込めました。私たちは今、学業や部活動に全力で励み、家があり、とても幸せに暮らしています。戦争で亡くなられた方々が生きたくても生きられなかった平和な日常を送れています。でも、世界では戦争の恐怖に怯え、毎日安心して生きることができない方々がたくさんいます。私が実際に広島に行き、戦争、核兵器への意識が変わったように、一人でも多くの方が戦争や核兵器の恐ろしさを嘆く原爆ドームに足を運び意識が変わることを願っています。私たちは実際に戦争を経験していないので気持ちを想像することしかできないけれど、これ以上辛い思いをする方がいませんようにと祈りを捧げると同時に、けっしてもう二度と同じ過ちは繰り返しませんという強い意志を込めて灯ろうを流しました。」

「私はとうろう流しをするにあたって灯ろうに込めた思いが二つあります。1つ目は、「一発の原子爆弾によって亡くなられた方々を哀悼」する思いを込めました。私たちは、このとうろう流しをする前日に広島平和記念資料館を見学し、当日に広島平和記念式典に参列しました。そこで戦争の悲惨さ・残酷さを深く学びました。「平和」という状態がどれだけ尊いものなのかということもよくわかりました。資料館では、あの日広島で何が起きたのか、ありのままの姿を目に焼き付け、心に刻みました。平和記念式典では、多くの方々のお話を聴き、改めて戦争は二度と繰り返してはいけないもの、多くの人が知るべきだと感じました。あの日の出来事、そして何が起きたかもわからないくらい一瞬でたった一つの命を失った方々、その後の人生に苦しみ亡くなった方々、合計34万9246人を決して忘れない、このような悲劇を繰り返さないという強い意志を灯ろうに込めました。灯ろうに込めた思い2つ目は「平和な世界の実現」を願う思いです。私は、この灯ろうが流れ着いた先に、平和な世界とたくさんの幸せが訪れてほしいと思いながら灯ろうを送り出しました。」

「8月6日の夜、平和記念公園のそばを流れる元安川には、日本の方だけではなく、外国の方も多く集まっていました。手にしていたのは、それぞれの平和への想いを書き込んだ色とりどりの灯ろうです。私も、争いのない平和な世界になってほしいという願いを書きました。元安川の水面にそっと浮かべると、ろうそくの柔らかな光が波に揺れながら流れていきました。無数の灯ろうが川を進んでゆく様子は、まるで夜空の星が地上に降りてきて流れているように見え、とても美しく、同時に胸の奥が少し締め付けられるような切なさも感じました。灯ろうひとつひとつには、戦争で命を落とした方々への追悼の気持ちや、平和への祈りが込められています。皆が同じ思いを胸に静かに灯ろうを見送っていると、言葉を交わさなくても、元安川に訪れていた見ず知らずの方々とも心が繋がっているような不思議な感覚になりました。川を流れる灯ろうの光を見ながら、私は改めて「平和は当たり前ではない。」ということを思い知らされました。今こうして穏やかな日々を送ることができているのは、過去の犠牲と、それを忘れずに語り継いできた方々のおかげだと感じました。とうろう流しは、「忘れないようにするための約束」なのではないかと思いました。私はこの日の貴重な体験を深く心に刻み、これからも平和を大切にしていきたいと思います。」

3日目:8月7日 平和学習の集いへの参加

3日目は平和学習の集いに参加しました。全国の自治体から参加した小・中・高校生と広島のユースピースボランティアの皆さんと被爆体験講話を聴講したり、地元の戦争被害や、身近な平和についてグループディスカッションを行いました。

平和学習の集い

平和学習の集い グループディスカッション

被爆体験講話 集合写真

団員報告より

「私たちは3日目に「第1回全国平和学習の集い」に参加しました。この集いには、全国の学校や市民団体が集まり、ボランティアによる原爆被害の説明や被爆体験証言者による講話、参加者たちとのグループディスカッションを行いました。開会式では、主催者代表によるあいさつや団体紹介がありました。また、「ユースピースボランティア」による原爆の被害説明があり、熱線や放射線について学びました。被爆体験者である岸田弘子さんの講話では、被爆直後の状況や被害について詳しく教えてくれました。グループディスカッションでは他県の人たちと二つのテーマについて議論しあい、核兵器廃絶への思いや平和であることの大切さを改めて考えることができました。」

「被爆体験講話の講師は岸田弘子さんで、6歳の時に爆心地から1.5km地点の自宅のトイレで被爆したそうです。当時の弘子さんは、近づいてくる飛行機の音に気付き、窓から空を見上げていました。しかし、機体を発見できず、顔をひっこめたその瞬間に大きな爆発音が鳴り響いたとともに、目の前が真っ暗になり、同時にトイレの土壁が崩れ落ち、気づいた時にはその土に生き埋めになってしまっていたそうです。私がこの講話の中で特に印象に残ったのは、弘子さん本人が描いた、「黒い雨」の絵です。当時この雨を見た人々はそれが放射線物質が混ざったものとは知らず、「火の範囲を広げるために空から油を降らしている」などと思っていたそうです。この絵を見て、当時の広島の風景は、とても恐ろしかったのだと改めて感じました。原爆投下から80年がたち、被爆体験者も年々少なくなっています。そのような中、弘子さんは被爆の「証言者」として核の恐ろしさ、戦争の愚かさを人類が二度と忘れることのないように語り継いできてくれました。私たちは、弘子さんの想いを受け継ぎ次の世代へと伝えていきたいです。」

「今回の平和学習の集いへの参加を通して、私たちは大切なことを二つ学びました。一つ目は、核兵器の本当の怖さです。教科書やニュースで知っていた被害の規模だけでなく、被爆体験講話を通じて、被爆者の方々が経験した言葉では表せないほどの痛みや苦しみを目と耳で感じることができました。そして、核兵器は一瞬で多くの命を奪うだけでなく、その後の人生にも深い傷を残すということを、改めて深く心に感じました。二つ目は、核兵器廃絶に向けて、自分に何ができるか考えて行動していかなければならないということです。原爆被害の説明のワークシートで「核兵器の廃絶のためには何が必要で、自分たちには何ができるのか?」を私たちが真剣に考え行動することで、身近な人へ平和の大切さを伝えることや、世界で起きている出来事に関心を持つことといった、自分にできる小さな一歩を見つけていくことができると思いました。今回の平和学習の集いで学んだことを胸に、これからも平和を創りあげていくために自分たちにできることを探し、行動していきたいと思います。」

派遣期間全体の感想

 団員報告より 

「私は3日間の広島派遣を通して、改めて平和の尊さ、戦争の悲惨さ、核兵器の恐ろしさを知り、いろいろなことを深く考え学ぶことができました。特に私が感銘を受けたのは、広島の子供たちの平和への意識の高さです。自分自身を振り返ると、やはり戦争は過去にあったものという、どこか遠い出来事に思っていたのかもしれません。それに比べて、広島の方々は全員が戦争を自分事として捉えており、本気でこの世界から核兵器や戦争を無くす、という揺るぎない決心を感じました。広島の方々から学んだこと、このとき受けた衝撃を胸に刻み、いつまでも忘れないようにしたいです。 またとうろう流しでは、「核兵器のない平和な世界になりますように」と願いました。皆さんは、平和な世界と言われてどんな世界を思い浮かべますか?私は、世界中の人達が安心して暮らせて、相手の意見を否定し争うよりも思いやることを選び、笑顔で溢れている世界だと思います。まだ子供の私達に憲法を変えたり、国に直接意見を発言したりすることは難しいと思います。ですが、世界平和に向けて出来る事はあると思います。例えば、家族、友達、先生などの自分から一番近い存在の人達にどう接するか。相手とどれだけ仲が良くても思いやりをもち自己中心的にならず、相手を傷つける事のない言葉と行動を選択するなどできることはたくさんあります。家族と平和に過ごせなければ友達とも平和に過ごせないと思います。世界平和を実現する為には、一人一人が自分事として捉え意識を変えなければなりません。一人一人の意識が変われば全員の意識が変わり、国や世界へと繋がっていくと思います。争いは私の周りにもあります。軽く飛び交う「死ね」という言葉、SNSに溢れる相手を責める言葉。文字はただの記号ではなく、受け取る人の心に深く届く刃にもなります。傷つけあうことで誰も幸せにならないし、残るのは後悔だけです。自分の考えだけで突き進まず、少し立ち止まって自分の信じる正しいと思う考えを疑わなければなりません。一人でも多くの人が相手を思いやり尊重し合える世界になるよう心から願っています。自分を守るための武器でも、使えば誰かを傷つけてしまいます。一人を傷つければ、その人の家族、大切な人達を悲しませてしまいます。私は武器を持たない勇気をもちたいです。恐怖から武装するのではなく、武力で解決しない、ほかの道を探し続けたいと思います。いつかは被爆者のいない世界が訪れます。現在被爆者の平均年齢は86歳を越えます。戦後80周年の節目の年に、私は改めて辛くて悲しい日本の過去に目を背けず向き合っていくことが大切だと思いました。戦争は、人の命や笑顔、未来までも奪ってしまうものであり、決して繰り返してはなりません。この事実を胸に刻み、各学校で平和の尊さと戦争の悲惨さを語り継ぎます。そして、どんな時代になってもその記憶を絶やさぬよう、強い意志で伝え続けていきます。」

フェリー乗り場 平和記念公園

報告会について

 8月23日、今回の派遣で学んだことや感じたことを班別に発表する報告会を開催しました。今後、派遣団員の皆さんには、派遣活動について、各校の学校祭などで発表し、全校生徒に広めていただくことになっています。

報告会1 報告会2

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