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喜多川歌麿と栃木

印刷 大きく印刷 更新日:2018年10月22日更新
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 喜多川歌麿(?~1806)は江戸時代中期の浮世絵師で、大首絵を創案し、美人画の大家として知られています。
 近年、栃木市内の民家およびゆかりの旧家から歌麿の肉筆画「女達磨図」、「鍾馗図」、「三福神の相撲図」が発見されました。

喜多川歌麿《女達磨図》の画像

喜多川歌麿《女達磨図》
寛政2~5(1790~93)年頃
とちぎ蔵の街美術館蔵

喜多川歌麿《鍾馗図》の画像

喜多川歌麿《鍾馗図》
寛政3~5(1791~93)年頃
とちぎ蔵の街美術館蔵

喜多川歌麿《三福神の相撲図》の画像

喜多川歌麿《三福神の相撲図》
寛政3~5(1791~93)年頃
とちぎ蔵の街美術館蔵

 栃木は江戸時代に京都から日光東照宮への奉幣使が毎年通る例幣使街道の宿場町として、また江戸へ通じる巴波川の舟運の要所としても栄えました。江戸と交流のあった栃木は、文化でもその影響を受け、狂歌が盛んになりました。狂歌とは、5・7・5・7・7の音で構成された短歌に、風刺や滑稽を読み込んだものです。自らも筆綾丸の狂歌名を持つ歌麿は、栃木の豪商と狂歌を通じて交流を持ち、歌麿の浮世絵版画の中には、栃木の狂歌師の狂歌が入ったものがいくつか見受けられます。
 歌麿は、豪商釜喜の4代目善野喜兵衛(狂歌名:通用亭徳成)と親しく、その叔父にあたる善野伊兵衛(初代釜伊)の依頼で、肉筆画大作「深川の雪」・「品川の月」・「吉原の花」を描いたと伝えられています。画面の大きさや制作年代は少しずつ違いますが、いずれも紙本着色の大幅で、遊廓での様子が描かれています。
 明治12年(1879)11月23日、定願寺(現在の栃木市旭町地内)において、近隣諸家の所有する書画の展観があり、「雪」「月」「花」が出品されました。
 その後明治の中頃に「雪」「月」「花」は栃木を離れ、現在「月」はフリーア美術館、「花」はワズワース・アセーニアム美術館、「雪」は箱根の岡田美術館に収蔵されています。

喜多川歌麿《品川の月》高精細複製画の画像

喜多川歌麿《品川の月》高精細複製画
原本:フリーア美術館所蔵
天明8(1788)年頃

喜多川歌麿《吉原の花》高精細複製画の画像

喜多川歌麿《吉原の花》高精細複製画
原本:ワズワース・アセーニアム美術館所蔵
寛政3~4(1791~2)年頃