令和3年11月6日(土曜日)に、二条城跡発掘調査の現地説明会を開催しました。
今回の説明会は新型コロナウイルス感染症対策として、少人数ずつ、3回に分けての開催となりました。
当日は爽やかな秋晴れとなり、参加いただいた総勢63名の方たちとともに、約1時間半かけて二条城跡をくまなく見て回りました。
今回の説明会でも参加者の皆さんの山城愛が伝わり、コロナ禍も吹き飛ばすようなエネルギッシュな説明会となりました。
参加者の皆さん、ありがとうございました!
二条城跡は、慶長8(1603)年に藤田信吉が領主となった際に築城されたと伝えられており、城または陣屋跡であるとも言われています。西に隣接する西方城跡は、天文17(1548)年に下野国名門武士団である宇都宮氏の一族だった西方氏が戦国時代に使用した山城であり、宇都宮氏の西の最前線の拠点として重要な場所とされていました。
令和3年度は、二条城跡の主郭と東側の曲輪を調査しました。
曲輪19-1(主郭)
○西側の土塁内側に5〜6段の石積みを発見:西方城跡とは違う石積み方法が推察されました。
○階段状の盛土による南側土塁の造成と、土塁頂上の石の散布を確認
○東側土塁内側に石積み(茶臼破片を含む)を確認
○調査区南・北・東側に溝のような落ちこみを確認:周囲の石積みや土塁よりもさらに古い遺構が存在した可能性がでてきました。
曲輪32-1
○曲輪中央から南東にかけて礫(小石)が多く散布
○曲輪南側では地表から約1.8m下に基盤層を確認:斜面だった地形を大規模に盛土し曲輪を造っていました。
○曲輪北側に溝状の落ちこみを確認:溝のさらに北側では、地層の様子から丁寧に整地されていることが伺えるため、この溝により土地利用の区別がされている可能性が考えられました。
昨年度まで行われた西方城跡調査においても、曲輪を造るにあたって丘陵を大きく削り、削った土を盛っていたことが確認できましたが、二条城跡の調査においても、同様に大規模な土木工事を行って曲輪を造っていたことが分かりました。ただし、石積みの方法や、溝や礫を用いた曲輪内での土地の利用区分など、西方城跡では確認できなかった手法を推察することができました。
また、かわらけ、陶器片、碁石、古銭(永楽通宝)が出土し、特に陶器片は長石釉がかかったいわゆる「志野焼」であり、16世紀末〜17世紀頃のものと判明しました。
令和4年度以降は、これまでの調査成果を整理するとともに、史料等の調査も進めてまいります。
令和3年度 二条城跡発掘調査現地説明会資料 [PDFファイル/1.14MB]
西方城跡・二条城跡入口近くの仮設事務所前に集合しています。
二条城跡は西方城跡よりもさらに急勾配・幅の狭い道が続きますので、足元に注意です。
二条城跡東側にある曲輪32-1に着きました。ここでは礫(小石)が集中している範囲や、地層の重なりを見ながら、整地や土地の造成について説明しました。
次の調査地点へ移動しています。道もますます急こう配になっていきます。
西側土塁の内側に施された石積みや、南側の階段状に盛土された土塁について説明しました。説明後は近くに寄って、隅々まで見学いただきました。
現地説明後、仮設事務所内にて昨年度以前の調査成果も含めた出土遺物等の説明をしました。感染症対策のため、少人数ずつ、交代制で見学していただきました。